小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

正義や悪という言葉に潜む強度

 

こんにちは。就活を控えている、文系大学院生のくららです。

今日から、思ったことや感じたことをコラム形式で記していきます。溜めこんだままのSS(ショート・ショート)も、公開することもあると思います。

レイアウト等は、これから少しずつ良くしていく心積もりでございます。

正義や悪という言葉に潜む強度

 正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味を私たちがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。 −− M.サンデル

 

実のところ、日本では「正義(justice)」という言葉があまり用いられることはないように思います。僕はたびたび、戦隊モノでいわれるような「正義のヒーロー」を思い浮かべますが。

 

一方で、アメリカの哲学系の土俵では、往々にして「正義」という言葉が語られてきました。幾度か日本への輸入があったとは思いますが、今なお、彼らが理解しているところの意味では、正確には引き継がれていないと感じます。

 

20世紀まで、彼らが「正義」という言葉で意味していたのは、絶対的な正義でした。絶対的という言葉には、ギリシャ時代から受け継がれている「真理(truth)」という概念の残滓があります。

 

「絶対的」というのは、言葉の意味そのままですが、真理概念の残滓として捉えられる時、それは唯一不変的なものだということも含意されています。つまり、戦隊モノで言えば、「正義のヒーロー」は絶対に正義であって、「悪」には決して成りえないのです。

 

「絶対的」という概念に対する言葉として、「相対的」という概念が提示されます。具体的に言うと、単に「絶対的ではない」という意味で「相対的である」と述べることはできないのですが、ここは僕の領分ではないので、「絶対的」⇔「相対的」といった理解にしておきます。

 

サンデルの言葉を振り返ってみると、依然として「正義」と言う言葉を用いているのが分かると思います。それが良いか悪いか、ということについては、今後どこかで書くかもしれません。

 

サンデルの意図は、「正義にかなう社会」を実現していくには、「善き生」について私たちの各々が考えなければならない、というものです。

 

 私たちがそれについてどれほど考えているのかはわかりませんが、サンデルのこうした指摘自体は、非常に示唆に富んでいるように思えます。

 

ですが一方で、私たちは十分に、危惧しなければならないことがあります。では、身近なところで考えていきましょう。

 

すでに述べたように、「正義」という言葉にいわば「真理」の残滓がある場合には、それは「絶対的に正しい」のです。言い換えれば、「本質」的に正しいのです。

 

この考え方が私たちの足を引っ張るのは、私たちが他者を見るときです。サルトルという哲学者がいますが、彼は、他者と自己の関係について熟考しました。私たちは、他者を見るときに、あるいは、他者と会話するときに、自分の中の「正しさ」=「正義」と、他者の中のそれとを、比較したり解釈したりせざるを得ません。

 

そのとき、自分の持つ「正しさ」の強度と、他者の持つ「正しさ」の強度が衝突します。

 

もし、あなたにとっての「正義」が正しいのならば、

他者にとっての「正義」は、必然的に、正しくないということになります。*1

 

いわゆるネットでの「炎上」による、過剰な「叩き行為」というのは、こうした強い強度を帯びた「正義」を持っているがゆえに、相手をまた絶対的な「悪」へと仕立て上げることができるのです。

 

戦隊モノでいうなら、その人は「正義」なのですから、「悪」は完膚なきまでに倒されて当然なのです。

 

サンデルの言うように、「善き生」というのが何かを考えるのは大事なことですが、それは、他者との衝突に際して、喉から飛び出しかけた自分の「正義」を飲み込んで、改めて考えてみてもいいかもしれません。

 

私たちは、長い時間をかけ、少しずつ変わっていくしかない、と僕は思うのです。

 

(1665文字)

*1:当然、どちらも「正しい」と言うことはできます。しかしそれは、当の問題を放棄しているような状態か、あるいは、双方におけるシチュエーションの差異によって可能になるようなものです。そもそも、どちらが「正しいのか」と言う尺度は、あまりアテになりません。100年前の常識と現代の常識は全く異なっていて、それを「正しさ」で考えることは無粋です。