小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

文系学部廃止という排除の論理

 

吐き出したのは、少しの優しい気持ちと白い息でした。どうも、くららです。

 

今日はコラムっぽいコラムを書こうと思いました。そのために内容を探そうと思って、ニュースを眺めていたんだけど、そういう時に限って、面白いことが思い浮かばない。いや、悲しいニュースとか凄惨なニュースに対して、面白いというのはどうかと思うけど。

文系学部廃止論という排除の論理

 

そこで、文系の大学院生である僕には常にホットな話題だった、「文系学部廃止論」についてきちんと調べてみることにしました。

president.jp

 

とりあえず、これだけ読んでれば、大体の筋はわかってもらえるはず。現在では、こうした廃止論の主張が、少しだけ形を変えて、下火になったまま鎮火されていない。

 

つまり、「文系学部いらないんじゃない?」とか「文系学部は役に立たないよね」とか、そうした主張に要約されるようになった。

 

正直、文系学部が廃止されようと僕は一切困らない。研究職に就いている人間と、これから先の子孫たちが困る可能性があるくらいではないだろうか。とにかく、色々と考えていたら、「文系学部廃止論」は強者による暇つぶしでしかない、という結論にたどり着いた。彼らの主張は、ほとんど、排除/排斥の論理の延長でしかない。

 

1)廃止論を唱える人間のなかには、<文系学部>が役に立たないと主張するために、社会で生きていくスキルが養えないから、というものがある。これは、否定できない事実のように思う。ただ、それは文系学部に限ったことではないので決定打にはならない(一応調べてみたけれど、他学部との社会的スキルを比較したものは見つけることができなかった)。

 

2)次に、文系学部でやることは、「大学でしか学ぶことできないわけではない」といった主張がある。これもまた理解はできるが、<ネットをうまく使いさえすれば>という条件付きで、簡単な情報はネットで拾えるということ。ただ、これも問題が二つある。

一つは、情報の偏りに流されないようにしなければならないというもの。ネットをうまく使うということには、情報の「取捨選択」が挙げられるが、これがうまくできないと意味がない。二つには、専門性や文献研究の仕方/方法は、やはり専門性のある学部や学科でしか学ぶことができない、というもの。

例えば、どこか体調が優れないとき、まずはネットで調べるというのは有効ではあるが、心配ならば病院に行くほうがいいというのは自明のことだ。医者がその道のプロであるとしたら、教授(研究者)も同様にその道のプロである。(近年では、病気などの診断にAIを用いることで、当の医者よりも正確な診断を下すことができるようになったらしい。しかし、そこで私たちは、「医者って必要ないよね」とは言わないだろう。)

 

結局のところ、1)然り2)においてのどちらも、<教える側>の工夫や努力が必要だということである。教える側がネットをうまく使うことができれば、確実に教育方法の幅が広がっていくだろう。特に、文系学部の教授陣は、研究に関してはプロではあるが、指導に関してはプロではない。教授になるためにいわゆる教員免許というのは必須ではないし、彼らは社会に出て営業経験を積んだわけでもない。しかしそのぶん、ある一人の思想家や作家の気持ちや言葉の一つの意味を理解するためだけに、時間を費やしている。

 

課題は、こうした、文系学部の意義と現状抱かれているそれとのギャップにあるはずだ。さらに言えば、研究者というものそれ自体について、また待遇や処遇などがもっと丁寧に議論され、考えられるべきであるはずのものだ。

 

つまり、文系学部での教育方法がダメだというのは勝手だが、改善策のほうに目を向けるべきである。僕には、どうしていきなり「廃止だ廃止だー!」となるのか、全く理解できない。その短絡さたるや、ダムの開発に少し遅くなっているから、あるいは少しうまくいかなかったからといって「壊せ壊せー!」と声を荒げているようなもんだ。

 

自分がそうした改善策を考えたくないからといって短絡的な議論に持ち込もうとしているのか、あるいは、そもそも「改善する」といった発想すらなかったのかは分からない。社会に出て建設的に生きることを目的に大学機関の在りようを目指しているのに、それに賛同している人間が全くもって建設的な態度をとっている/議論をしているとは思えない。

 

完全にブーメランだ。

 

 

とまぁ、それはいいとして、僕はこの現状を、「排除の論理」と繋げたい。

 

なんども聞いて飽きてきた言葉に、「自己責任」という言葉がある。これほどのパワーワードは、そうそう言えるもんじゃない。あまりに強い。「それ、自己責任やからな」とよく聞く。もちろん、シチュエーションによりけりだ。相手に落ち度がある時、そして言葉に詰まった時には、僕もそう言いたくなる時がある。「それは、自己責任でしかない。」

 

ただ、大抵は、無慈悲な死体蹴りでしかない。

 

「マウンティング」という言葉があるくらい、近年ではこうした状況を表す言葉も多く出てきた。マウンティング自体は、昔からあるものだろう、おそらく。なぜ人はマウントを取るのか、その心理は色々な要因があげられているし、ここでは取り上げない。

 

ただ僕の言葉で言えば、彼らは、相手よりも自分の方が上だと見せたいという欲求、すなわち、より強者になりたいという欲求がある。こうした欲求自体は、みんな抱えているようなものであると思う。

 

しかし昔に比して、<上下>関係という既存のルールが崩壊してきている。誰も、誰が、<上にいるのか>を確かめることができなくなった。

 

これは、「お金の稼ぎ方」の多様性を過剰に強調する人間の登場と、「小さな幸せ」論者に象徴されている。それと、「〜をしたから社長になった」「〜をしなかったからアスリートになれた」類いの書物がばか売れしていることにも、象徴されている。

 

なんとも振り幅が大きい。お金が絶対的な価値だと言わんばかりなのに、他方で、小さな幸せを大切にしよう、と言う。そうして、下の人間の価値を操作しようとする人間が増えている。しかし、それができないときはどうだろう。

 

僕の見立てでは、「叩くしかない」。(彼らがすでに強者の利を得ているときは、ただの死体蹴りにしかならないが。)

 

彼らが口を揃えて言うのは、「努力」だ。自分は<こうなる>までに、<こういう>努力をしてきた。だから今は<こうなれている>。多くは、簡単な三段論法に集約される「努力論」を、たたみ掛けている。そして大抵は、成功したことの結果論でしかない。

 

彼らの誰一人として、「私は運がよかった」などと言えない。「私は恵まれていた」「私は運がよかった」と言えないのは、自己肯定感を保つためとか、優越感を味わうためとか、僕にはその辺のことはわからない。しかしどうも、宝くじが当たった人と同じ心理のように見える。「今年はちゃんとお参りしたから」とか、「〜したのが良かった」とか。たんに「運がよかったこと」を、理由付けたくなる心理。

 

努力は大事だ。おかしいのは、人生の多くは運が左右しているということを誰も言わないことだ。努力は結果を結ぶが、その結果には、運の要素も大きく含まれているはずだ。

 

だから「甘えるな」という言葉が流行ったのは、強者の論理なのだ。それは排除の論理だった。「努力のできないやつ」は「甘えている」のだ。さすがに強すぎる。この僕ですら頭が上がらないたまらない思いに駆られる。

 

僕は以前、正義の話をしたが、

kurara121.hatenablog.com

「悪」を探すことに躍起になっている人も多い。本来自分にとってはどうでもいいはずの事柄にさえ、排除の論理を持ち込んでしまう人も多い。自分の場所を確保するために、誰かを取り除く。

 

自分の輪の中に入っている異物を、過剰に吐き出そうとする。だから、ネット上の議論なんてすぐに死体蹴りになる。相手が降参していても、その勢いが止まらない。悪をあぶり出したら、自分が強者になるために、いや、自分が弱者にならないための防衛反応かもしれないが、武器を手にして討伐に向かうのだ。

 

実のところ、多くの人はジレンマに苛まされているのではないか。この国に、こうした状況になんの疑問を抱かないようなお気楽な人が多いとも、僕には到底思えない。死体蹴りをしてしまって、僕も反省することがある。今だって、現にそうしているのかもしれない。

 

 

話しは逸れてしまったが、「文系学部廃止論者」の中には、そうした強者が一定数存在する。しかし残念ながら、文系学部を叩いても何も出てこない。何かを叩くこと自体、怒りや憎悪以外の、何も生み出せない。

 

強者になるのは勝手だが、弱者を仕立て上げる必要はない。

 

最後に。僕は、こうした現状を改善するための有効なことを言えるほど頭が良くないため、ひとまず軌道修正しようと試みた。<排除>をかざす前に、建設的な話しをしましょう。

 

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