小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

生きていることの意味がわからない

 

孤独はどうにも救いようがないらしく、少しでも明るく振る舞おうと頑張った結果に待ってたのは、さらに重苦しい孤独でした。どうも、くららです。

 

人生は後悔が付きもので、〜をしなかったとか〜を諦めたとか、いずれにせよ人間はみんな後悔をするらしい。だから、その後悔を少しでも少なくするために、やりたいことはやるべきだ、という論理が蔓延している。

 

人間は、自分に関係のないことほど、綺麗ごとを吐けるようになる。綺麗ごとは、常に相手に価値観を押しつけるが、僕は人生で綺麗ごとを一切信じてこれなかったから、その反動で、達成されない望みとか、人生に対する悲観ばかりに目がいってしまうようになった。今思えば、どっちが先だったかわからない。ともかく、僕は綺麗なことを言う人間がいたら、その言葉が誰かの押し売りでないことを確認したいと思ってしまう。もし、それが押し売りでないなら、それはとても素晴らしい言葉である。綺麗ごとではない、素晴らしい事柄なのだ。自分自身のためだけに自分自身が用意した言葉ほど、美しい言葉はないのだ。

 

生きていることの意味がわからない

 

一定の割合で、次のように考える人がいるらしい。つまり、「自分の人生をどうにかしないと、生きていることの意味を持てない」と考える人間がいる。僕の話しだ。どうにも頭の悪そうな問いである。答えのなさに、それだけで途方に暮れてしまうような問いである。

 

先日、ハートネットTVを観ていた。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/program/?id=201711082000

 

内容はこんな感じだ。東大生が、障害者を通じて、何かを感じたいといった内容だった。東大生に対して不愉快に思うこともあったがそれはひとまず置いといて、僕は、そこで一人だけ「仲間」を見つけた。彼は、僕が全く同様に用いていた「意味」という言葉をずっと使っていた。それが、下のような問いだ。

 

「生きていることの意味がわからない」

 

まぁなんかこんな感じで、そこには悲観的な人間がいた。僕は、三年くらい前まで全く同じ問いに悩んでいたので、よく頭を抱えていたのを思い出した。彼に対するアンチテーゼとして、誰かが言った。

 

 「存在しているという事実があるだけだ」

 

どうにもウィトゲンシュタイン風の言い回しである。だが、これは「意味」という謎に立ち向かう彼にとっては、親身に感じられる言語ではない(とりあえず後期ウィトゲンシュタインを読むのはオススメしておくけど)。まぁしかし、僕も彼も、すぐにこれに納得できるくらいに、割り切れちゃいないのだ。僕はそうなのだけど、体系的ではないと納得できない。名言集みたいなものは、受けつけないのだ。

 

TVに映されたその人間は、「こうした問いをそれ自体忘れることができたらいいけど、それは今すぐできないんです」と言っていた。わかる。

 

誰もが一度は、「生きている意味がわからない」と考えることはあるだろう。しかし、その問題に突き当たったとき、それが<生涯を通しての問題になる人>は少ない。だから、この問題が<しっかりと刻まれてしまった人>になってしまった彼を、僕は<仲間>だとみなした。

 

しかし、「そもそも問題の立てかたが間違っている」ということに気づけない。これは、そういう類いの問題である。彼らが陥っているのは、一歩も進まずとも迷宮であるような問題である。「意味」って何だろう?という問いは、「人間」って何だろう?という問いと同様に、無限に繰り返され、定義も不可能な言語だ。

 

そのため、僕はどうやってこの問題を解消したのか、ということについて書く。

 

しかしこれは、あまりにも長くなりすぎるので、なるべくシンプルに書くことを心がけたい。その前に、この問いは一般に哲学の土俵でありながらも、私たちはあまり真剣に哲学的に捉えるべきではない、ということを念頭に入れてほしい。僕も哲学畑出身であるが、「迷宮」をこころよく引き受ける人たちと違って、僕は「迷宮」に陥らないために哲学をしている。 

実のところ、彼らが迷い込むような「迷宮」なんてものはない。彼らが考えるような、「深いところ」なんてものはない。それは、目に見えないもの、と言ってもいいかもしれない。

 

語弊を生み出すと面倒臭いけども、こうした問題を考えるときには、私たちは、常にあらゆる動物を同胞とする生き物の一種である、と捉えるべきである。ダーウィンの見解に賛同するということは、「宗教とか認識できないものを信仰することが馬鹿げている」ということではなく、「私たちを越えた天上にも、私たちの奥底に沈み込んでいるところにも、何か特別なものというのは無い」、ということを教訓にすることである。

 

すなわち、私たち地球上に産まれ落ちた生物は、他の動物よりも、言語を巧みに操ることができるようになったということだけで、そこに何か特別な意味が与えられているだけではない、ということである。

 

例えば、アメーバの繁殖と、犬の繁殖と、人間の繁殖における差異は、人間が言語を用いながら繁殖活動をするということだけで、そのために他の生物に比べて、人間の方が優っているという結論にはならない。彼ら生物と、僕たち生物の特権的な違いというものはない。

 

僕は前回ニーチェの話しを少しだけしたと思うが、彼はいち早く、この事態がなんであるかということに気づいた人間である。彼は、依然としてこの事態が引き起こす問題に取り憑かれていたのではあるが・・・。 →→ 逃げることのすヽめ - 消え逝く道の標べに 

 

すでに上で触れているように「私たちは言語を巧みに操る生き物」であるということで、僕が何を言いたいのか。すれば次の問いは、「言語」とは何か、である。

 

人間は何かを行為する際に、必ず言語を必要とする。人間のみができるとされる高度な行為というのは、必ず言語が伴っている。コミュニケーションの一つにボディランゲージというものがあるが、それも結局のところ、一種の言語である。言語は、<記号>と言ってもいいかもしれない。

 

例えば、近年ではAIが問題視されているが、彼らの動作のいずれも<記号>を利用したものである。人間と彼らの差異は、「心」というものの差異である、とよく言われるだろう(いや、しかし長くなりそうなので、この話しについてはまた後日記すことにしたい)。

 

f:id:kurara121:20180130112041j:plain

 

 

わかりやすく伝えるために、こんなシチュエーションを想定してほしい。

 

数年前、あなたは用事があったため渋谷の街を歩いていた。溢れかえっている人たちをかき分けていると、ふと横をすれ違った二人組のギャルのうちの一人が、「マジ卍!!!(まじまんじ)」と叫んだ。あなたは、彼女の発した異様な言葉と奇行に驚いた。

 

するとすぐに、もう一人のギャルがその謎の音声に呼応するように、「ウェ〜イ!!!」と言い放っていた。あなたは、この二人の会話がもはや日本語だとは思えなかったし、とても異質なもののように感じた。すでにギャルは遠くの方に行ってしまった。しかしあなたは、それらの言葉が、何を意味しているのか、と考えながらその空間を後にした。

 

あなたはやっとの思いで家に帰り、先ほどのギャルの会話を思い出した。気になったあなたは、ネットで調べてみた。

 

「マジ卍」:女子高生の間で流行した。おそらく「まじ?」が派生したものであり、あまり意味はないらしい。

「ウェイ」:盛り上がった時などに男子大学生の間で使われるようになった。この言葉は、盛り上がっている時や興奮した時、何もない時の返答の際にも使われることがあり、明確な意味はないらしい。

 

 

・・・はい、なにこのシチュエーション。打ちながら、これ、いるかな?と思ってたよ。まぁいいとして、ここで言いたかったのは、「意味が不明瞭な言語」というものは、はたしてあるのか、ということだ。そこにはちゃんとした意味があるはずだ!と思って、いっそギャルを観察してその意味を羅列したくなる気分に駆られる。

 

そう、僕が言いたいのは、「言語は必ずしも正確に物事と対応しているわけではない」ということだ。ここで重要なのは、<必ずしも>という点である。20世紀の哲学の枠組みで考えられていたのは、「言語と物事は<必ず>対応している」という当たり前の認識であった。

 

彼らはそのように言語というものを定義することで、言語は物事を<正確に>表すことが可能だと主張することができた。すると、言語の可謬的な側面には、焦点を当てなくてもよい。つまり、彼らは「マジ卍」を非言語で、異質で、議論に値しないものだと考えることで、(真理への)探求の枠組みを安全に確保しようとした。さらに言えば、その枠組みを壊そうと長らく抵抗していたのが、ロマン主義の一派であったのだが、彼らロマン主義者たちもまた、人間におけるある種の<本質>を掲げることで対抗したのであった。しかしこのような議論は、人間についての「性善説」と「性悪説」のような水掛け論にしかならない。 →→ 性善説 - Wikipedia

 

現代哲学の領野の一部では、こうした言語と物事の関係を考えるにあたって、「言語は必ずしも正確に物事と対応しているわけではない」と主張するようになった。そうすると、言語はどのように見えるのだろうか。

 

「言語」は「道具」に過ぎないのである。

 

道具といえば、例えば、鉛筆や消しゴムであり、時計であり、リップクリームであり、椅子であり、机である。これが意味することは、私たちは言語という道具を用いてコミュニーケションを可能としているということはもちろんだが、そもそも、言語というものの性質はそれ自体として道具的でしかない、ということだ。

 

言語は、椅子や机のように、常に開発されるものである。「マジ卍」も立派な言語だ。(私たちは会話をするとき、時折噛み合わないことがある。だが、本来の意図と違う意図で伝わることは、たんなる道具の用い方の違いによるものである。つまり、個々人が用いてきたその言語の使用法が、相手と異なっていただけに過ぎない。)

 

例として、文字を書くのは色鉛筆ではなく鉛筆であるが、色鉛筆で文字を書いてはいけないことはないし、言語も同じく、定義から外れた使用法がなされたときに、また十分な機能を備わって開発されることがよくある。ここにあるのは、使い古された言語と、新しく使われる言語だけだ。そこには、何か神聖な、あるいは、本質的で特権的な理由があるわけではない。

 

言語をこのように捉えることで、私たちの言語に関する見方は幾分変わってくるはずだ。言語は決して神聖なものではないし、言語と事物が対応しているということで彼らが想定してきた探求を可能にするような言語観は捨て去るべきである。言語はたんなる道具に過ぎない。そこに何かあると考える必要はない。言語を用いて行為し、生きていくこと、それが人間という生き物であるだけだ。

 

・・・やっと本題に戻ってこれた。

 

すると実のところ、私たちは「意味」という言語が「何か」ということについて考える必要はない。「意味」の定義を調べようが、「意味」という言語に何か特別深いものを求めようが、いずれにせよ、何も出てこない。「意味」という言葉は「マジ卍」という言葉となんら変わりないのだ。「意味」という言葉の深さに迷い込み、哲学的な問いと睨めっこする必要はない。そこに深淵な何かは待ってない。新しい語彙や言い回しによって、その深さを埋めようとするだけだ。しかしその語彙もまた、深遠なものではない。言語は、非形而上学的に考えられるべきである。

 

かくして、わかりやすく言うならば、次のように言い換えるべきなのだ。より根本的な言語なんてないのだから、好きな文に言い換えても何も問題はないのだ。

 

つまり、僕が冒頭に述べたような問い(「生きていることの意味がわからない」)を昔よりいくらかマシなものとして捉えられるようになったのは、「意味」という理論的な枠組みから、実践的でわかりやすい「理由」という言葉に言い換えたためだ。

 

「生きていることの理由がわからない」

 

せめてこう言い換えることができれば、僕たちは「意味」なんて言葉に迷い込まなくて済むのだ。「意味」は<創り出す>というイメージが伴わないけど、理由が欲しければ、探しにいけばいいし、理由がなければ、理由を<創れる>よう足掻くしかない。

 

 

問いの立て方を変えること、それだけで見え方が変わる。今、根本的な問題だと感じていても、それに伴う言語について少し捉え方を変えるだけで、あなたを楽にするかもしれない。そんな思いで、最後まで書き抜きました。

 

新しい語彙や言い回しの一つが、人生に対する価値観や方向性を変える可能性を秘めている。生きていきましょう。

 

(5220文字)