小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

死に臨む態度としての「救い」と「慰め」について

 

幕が下がる前に、あの舞台に痕跡を残せたら。どうも、くららです。

 

卒業論文で僕の書いたものは、創造することによって救われることを望んだ人種についての考察だった。それは、一般に詩人と呼ばれる種の人びとであり、彼らの死に対する態度を紐解こうとした。

 

別に詩人に限ったことじゃない。僕たちには、救いが必要だった。

 

自分の人生を克服するという、問いの抽象度の高さが議論の難しさを物語っていた。しかし、抽象度が高いと言って、この議論が無駄だとは思えない。

 

以前、僕は言語について書いた。

kurara121.hatenablog.com

 

それは、言語に関する<深さのイメージ>や<私たちを越えて存在するというイメージ>、<媒介者としてのイメージ>を取り除くことだった。つまり、言語をいくら捉えようと頑張ったところで、実のところ、流動を食い止めることはできないことになる。言語は、常に暫定的なものでしかない。使い古された言語は、絶対性を担保するものではなく、むしろ言語の流動性・可謬性を表している。

 

僕たちの人生は、時間によって洗われている。<不動>はありえない。世にずっと残り続けるとされるものは、今や、神様か目に見えないものくらいしかない。だが人間というものだけでなく、全てのものには、時間の波が押し寄せている。その波は、記憶を掻っ攫う。常に波にのまれるものを一体どのようにして引き寄せられるというのだろうか。手から溢れていく砂を、一粒残さず握り締めようとするのは不可能だ。

恐れかつ希望することを、人間に教えなければならない。ところが、俗物は想像力を持っていないし、また、持とうともしない、むしろ想像力を嫌うのである。それゆえ、ここには救いというものがない。 −−S.キルケゴール

 

一部の詩人は、書くことによって、救われることを望む。彼らは、言語の渦の中から這い出て、天空に未だ隠れている存在者と合致しようと試みる。あるいは、深みへと沈み込み、その奥底に潜んでいる存在者と合致しようと試みる。

 

しかしこのような感覚こそ、一般的に言われてきたような宗教的感覚だ。

 

聖書の解釈では、信じることによって救われるとされるものが多くある。ここでは、<罪>、<イエスの復活>、<救い>とが交差している。

 

一方で20世紀以前の詩人は、いくらか神秘主義的ではあるが、こうした神のイメージは退けられていることが多い。付言しおくと、神秘主義者が必ずしも信仰者であるとは限らない。

 

しかし、いずれにせよ<救い>のイメージが聖書からきているとすれば、彼らの一部は、未だ同様に聖書のイメージを残滓としていることが多いということになる。

 

例えば、キリスト教道徳を鋭く批判したニーチェに至っても、救い、すなわち<救済>という言葉を使っている。僕は、なぜ彼がなお、「救い」という言葉を使わなければならなかったのか、ということが理解できなかったのだ。つまり、ここには、よりベターな言葉があるのではないか、というのが僕のしばらくの課題であった。

 

ニーチェキリスト教的な「真理」を(ここについては本旨から逸れるので大まかにこのように言っておくが)否定し、『ツァラトゥストラ』において、「真理」の転換を図る。

 

彼の定義では、「善人」は、「未来」と「真理」を犠牲にする者であり、おのれの生存にのみ注力する。「未来」を犠牲にするというのは彼らが「創造」を否定するためだ。わかりやすく言えば、彼らは「真理」が一つしかないと思っているし、私たちの生は定められたレールを辿っていると考えている。聳え立つ真理が、私たちの天上にはあるのだ。私たちは天上から見下されているだけで従うことしかできない。そこに「創造」の隙間は空いていない。

そして彼らに対置されるのは、「超人」である。英語だと「スーパーマン」だ。ニーチェの「超人」思想については(専門家でないため詳細なところに踏み込むのは控えるが)、「救済」こそが大きなテーマである。

人間は詩人でもあり、謎の解明者でもあり、偶然の救済者でもある。もしそうでなければ、どうして私は人間であることに堪えられよう。

過去に存在したものたちを救済し、一切の「そうであった」を「私はそう欲したのだ」に造り変えること−−−これこそはじめて救済の名にあたいしよう。  −−F.ニーチェ

 

偶然を救うこと、あるいは偶然から救われること、それこそニーチェの眼目であった。A.カミュであれば、「不条理」という言葉を使うかもしれない。他の誰かは、「虚無」とか「無」という言葉を使うかもしれない。「偶然」「不条理」「虚無」のどれが根本的であるということはない。同じものを指しているわけでもないが、かといって、どの表現が正確であるかは誰にも決められない。だが、詩人の多くはこのように言語化することで、狙いを定めて、泥沼に沈み込んだ私たちに手を差し伸べるのである。

 

しかしニーチェの犯した間違いは、「そうであった」を「私はそう欲したのだ」と言えるほどの「超人」になることがほとんど現実的ではない、ということにある。現実的ではないという批判は、少し味気ないかもしれない。だが、僕の主張は次のことである。すなわち、私たちは自らの過去の全てを記述することは絶対にできないし、その記述方法、語彙、言い回しは、常に時間の波に晒されているのである。だから、確定された記述のようなものを成し遂げることは絶対にできないのだ。これだけは正しいと思われることでさえも、時間の波によって、変化せざるをえないのだ。

 

私たちの人生をいくら捉えようとしても、変更が加えられる過ぎ去った全てのものの後ろに引っつく、注釈に過ぎないものとなってしまう。ニーチェは、あらゆる語彙によって、そうした流動を食い止めようとした。だがやはりどんな存在になったとて、そうした波による鉄の腐食を、食い止めることはできない。

 

もし全てを克服できる時があるとすれば、死を前にした瞬間だけである。それ以外には、自らの人生を完全に克服することはできない。

 

かくして、「救済」というのは大げさなイメージなのだということだ。

多くの人間が「救われたい」と願うが、それは達成の見込みのない願いである。詩人の一人でも、救われたことがあっただろうか。僕の見立てでは、「救われること」に取り憑かれ何かを描き続けた人間は、絶対に救われていない。救いは、それが絶対的であるなら、内側から溢れ出す光が天上と繋がり、終いには全身が光に包み込まれるようなものだろう。

 

しかし今生きている人間たちは、救われないからといって絶望だけがあるわけではない。僕は、「慰め」という言葉でそれを表したい。おそらく21世紀に住まうの私たちは、宗教的な「救い」のイメージをさほど求めてはおらず、「慰め」を探している。そもそも、僕があえて精査しなくとも救われることを求めている人は少ないし、本当に救われていると思っているのか、と問われたら、多くの人間は口を噤むだろう。

 

僕たちに必要なのは、「慰め」だ。

 

僕の探していたものは「救い」だった。人生が確実に報われる保証/確証が欲しかったし、生きていくための全て、生きてきたことの全ては、救われることによってどうにでもなると考えていた。僕は、救われたくて、本を読んでいた。やはり、僕は間違っていた。

 

何千年も前から、「救い」は誰にも訪れなかったのだ。聖書も、ニーチェが定義したような「救済」も、全く存在しない。いずれも白昼夢でしかない。*1

 

言い方を変えよう。 

「救い」は形而上学の語彙であり、「慰め」は、世俗化された語彙である。

 

救いは、絶対的で、普遍的で、不動なものだ。

慰めは、暫定的で、可謬的で、変更可能だ。

 

僕たちは、一人では生きていけない。好きな人を見つけ、彼や彼女の帰宅を待ったり、彼や彼女が帰宅を待ってくれる。今日も辛かったけど明日も1日を頑張ろう、と思う。まともに生きていくためには、誰かによって慰められる必要がある。

 

僕や詩人たちの人生における主題は、「死」である。死を前にして慰められる何かを求めている。生きている理由や生きてきた理由は、「慰め」の濃度によって左右される。

 

少なくとも、現代に生きる人びとは、あの世を信じているかは別として、「慰め」を必要としていると僕は思う。すでに、自分が救われないことに気づいている。生の全てが報われるような絶対的な救済というものは訪れない。だから僕は死に臨む態度として適切な言葉の一つとして、「慰め」という言葉を使うようにした。

 

M.ハイデガーという哲学者は、「世人」とか「現存在」といった言葉を巧みに使って、人間を描写しようとした。彼は、私たちは「死へ先駆する」ことで、本来の自分を取り戻すことができると考えた。わかりやすく言えば、自分の死について考えることで、本来の自分を見つけることができるということだ(例えば、臨死体験に興味を持つ人なんかは、この類いだと思われるが、単なる好奇心や超体験への関心の場合が多いか)。

 

彼も結局、救われることを望んでいた。本来の自分というものを見つけることによって。

 

僕は「本来の自分」という像の想定自体が誤りを含んでいると考えるが、しかし、僕たちを待っている絶対的でかつ確実な「死」という出来事に立ち向かうためには、「慰め」が必要である。彼らは、救いを求めたために、宗教的なイメージの残滓から抜け出せず、形而上学的にならざるをえなかった。

 

キリスト者の一部は、死を前にして、祈りを繰り返す。僕たちは死を前にして、何をするだろうか。僕は、「慰め」があればいい。それだけで、死に際しても、自分の人生が少しでもいいものだったと思える。

 

あなたの「慰め」は何だろうか。

 

僕の暫定的な「慰め」は、なぜ生きることが苦しいのかについて知ること、そして、世界の美しさを感じること、そして、これから先の世界についてほんのわずかな希望を抱いていることである。これが、僕の死に臨むことのできる唯一の態度である。

 

 (3980文字)

*1:「悟り」は救いにならないのか、と問われても僕の答えは同じである。