小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

『物語の終わりには』

 

『物語の終わりには』

 

 「ねえ、マルバツゲームしようよ」

 「うん」

 「じゃあね、ライオンの雄は子供が生まれると群れから離れると思う?」

 「マル、かな」

 「それじゃあ、雌は雄を追いかけると思う?」

 「えっと、そういう時もある、じゃだめかな」

 「だめよ、マルか、それじゃなきゃバツで答えなきゃ」

 「でもライオンのルールも、ましてや雌の気持ちも、僕にはわからないよ」

 「こうしましょ、そのライオンの気持ちを人間の気持ちとして考えるの」

 「なおさらだよ、人間だって時によると思う」

 「それじゃあ、私はあなたの後を追いかけると思う?」

 

 夕陽がとても眩しかった。僕は全身の感覚で、夕陽の熱気を感じていた。

 僕の左側を歩く彼女の横顔は長い髪に遮られていた。僕は横顔を見るべきだと感じていたけど、結局ちゃんと捉えることができたのは、ところどころ焦げた肌色の砂浜、それを覆うように波立つ海がどこまでも広がっているということだけだった。

 時間も夕陽の動きも、彼女の歩みも止まることはなかった。彼女の歩調に合わせるように、僕の足は、僕の意志を無視するように動いていた。

 いつしか左側の光景から海岸は消え、古びた民家が連なっていた。塩からい海風が彼女の髪を乱すと、赤く照らされた頰をなぞる一本の光りが見えたような気がした。

 あの時、僕はたしかにこう答えていた。

 「僕にはわからないよ」

 

 僕たちは、沈黙を正しく受け入れていた。閑散とした電車のホームは、僕たちの沈黙を妨げなかった。今までの全てが幻想のように思えた。いっさいが回想であったかのように過ぎ去っていった。何かが少しでも違っていたら、きっと沈黙は破られていたはずだった。しかし僕も彼女も、そのままに放っておくしかなかった。

 沈黙が永遠に続くのならば、それはもはや沈黙ではないはずだった。僕は電車に乗り込んだ。僕たちは見えない扉が目の前にあることを感じていた。永遠の時間を真っ二つにするかのように電車の扉が閉まろうとしていた。そのとき、彼女は静かに口を動かした。

 「またね、気をつけて帰ってね。もし、あなたの気が向いたら……」

 電車のアナウンスが彼女の言葉を掻き消す。その時、僕は沈黙がいつまでも続かないということを知った。

 彼女は顔を上げ、こちらを見ていた。力強く直進し始めた電車は、僕から扉の向こう側の世界を奪い去ろうとした。

 もう二度と訪れないであろう訣別が、ただの記憶として横たわった。それは今にも消え入りそうで、僕はそれを手繰り寄せ、離さぬようにした。

 電車はあっという間に終着点に着いた。

 

 一面に広がった薄緑色の芝生の上で、僕たちは水風船を投げ合っている。たぶん僕たちは心の底から笑っている。水風船は放物線を描いて飛び交う。鳥たちは僕たちの頭上を自由に舞っていた。すでに服はびしょ濡れになっている。外の気温に合わせるように少しだけ冷たくなった木のベンチに座る。最後の水風船を思いっきり前に投げて、少し経ってから僕たちはキスをする。夏が始まるのを全身で感じている。

 

 電車の曇りガラスに映る曖昧な輪郭は、そのフレームの中で、生成と消滅を繰り返している。全てが過ぎ去っていくことを知っていながら、人は、生きている。彼女の記憶を保存するために、僕は同じ光景を何度も反芻していた。彼女と一緒にいた記憶を、生活の中に投影するようにした。

 あの日の布団の中は、僕たちの温度で暖かくなっていた。

 「もう、帰らなきゃ」

 「寂しくなるね」

 「でもたぶん、すぐ会えるよ」

 彼女が腰を浮かせたために、僕は世界の冷たさを感じた。寒さが、彼女との距離を予感させていた。

 僕たちは、何度も駅までの道を往復した。ホームベンチが冷えているために、座るよりも歩く方が長い時間を共にすることができた。

 彼女の手は冷たかった。別れを恐れる子供のように、僕は必死に彼女の手を握った。相当な時間が経っていたらしい。何度も往復していた道には、不自然なほどに真っ白な街灯と、僕たちだけしか残されていなかった。

 「あなたの手はいつも暖かいのね」

 「君の手が冷たいんだよ」

 「ふふ、きっとそうね」

 彼女は浮かれた調子で、眉をわずかに下げて僕に微笑んだあと、しなやかな足どりで電車に乗り込んだ。僕はただ彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。しばらくして向こう側から手を振る彼女の姿が、とても美しかった。

 

 あれから何年も経っていた。僕は沈み込んでゆく彼女を、手繰り寄せようとすることを諦めていた。絞り出せなくなっていた記憶の何処に彼女を探せばいいのだろうか。

 球形の太陽が目に差し込む。僕は何度も変化なしに訪れる朝を、不気味なほど恐ろしいものに感じていた。原因は何だっただろうか、今はほとんど思い出すことができない。記憶の中で何度も歩いた道を再現するよう歩いても、その道に彼女の姿は見えない。僕は次第に闇の中へと溶けこんでいく。

 今朝もまた煙草を呑む。少しの動悸を伴うことで、僕は準備に取りかかる。駅までの道を歩きながら煙を吐き出し、煙草は直ぐにくたくたになって焼却され灰に変わった。今朝もまた一日を反芻する。意識の底で世界はひどく撓んでいる。

 今になっては、彼女が何を考えて生きているのかなんて皆目見当もつかない。僕は世界の一切に置き去りにされていた。だから、記憶だけが僕の全てだった。しかし、忘却の波は、躊躇なく記憶を掻っ攫っていった。

 どれほど記憶の首根っこを鷲掴みしようと、けっして忘れぬようにとどめておこうと、僕には無理なことだった。「ねえ、マルバツゲームしようよ」

 すでに僕は彼女を身近に感じることはできなくなっていた。「うん」

 長い時間をかけて記憶は滑り出していた。「それじゃあ、私はあなたの後を追いかけると思う?」

 彼女の生きた時間と、僕の生きた時間は次第に消えていった。「僕にはわからないよ」

 それでも、もう二度と思い出すこともできない、語ることもできない記憶が、この世界でもっとも甘美なものだったということを僕は知っている。

 

 ところどころ焦げた肌色の砂浜が、窮屈そうに肩を並べたテトラポッドに押しのけられていた。

 力を失った夕焼けは海を赤く染めている。波は、永遠の反復にずっと以前から疲れ果てていたが、今も変わらずにうねることを止めてはいなかった。

 僕は冷たくなった手をジャケットのポケットに突っこみ、煙草を取り出す。肺を震わせ、煙をいれ、大きく吐き出す。風がなびき、煙が目に滲みる。僕は、この光景を彼女との最後の記憶として保存しようと思っていた。

 

 「ねえ、マルバツゲームしようよ」

 記憶の中で彼女が話しかけてくる。それは僕がもっとも鮮明に覚えている記憶だった。忘却の波は、一生を経て僕の全てを洗い流すだろう。僕は、忘却に抵抗してみせる。物語として書き記すことで、記憶に波止場を作ればいい。僕は、自分のために物語を眺めるのだ。だから、物語には終わりが必要だ。

 「ねえ、無視?」

 心臓がかすかに動き出す音がした。

 「悲しげに夕陽を眺めているから、一体どんな人かと思ったよ?」

 記憶にはない、それは新しい音だった。僕は左を振り返る。

 「私の家からここは見えるのよ」

 彼女は薄い生地の焦茶色のカーディガンを羽織っていた。走ってきたのか、息がわずかに上がっている。彼女の声は、記憶の彼女のそれと同じだった。優しく、透き通る、一片の恐れなど感じさせない芯の通った声。

 「いつぶりかな、元気にしてた?」

 彼女の長い髪が、波風に合わせて揺れていた。世界の中に、彼女が溶け込んでいた。

 「元気だよ」

 止まっていた時間は動き出した。あまりにも二人の大きな沈黙を破って。しかし彼女の意図を僕はまだ知らない、僕はそれを知らなければならなかった。

 彼女は、僕から夕陽に視線を逸らした。彼女の横顔は、記憶のものと変わらなかった。

 「煙草が似合うね」

 「まずいよ、こんなもの」

 「矛盾してるよ、それ」

 「そうかな」

 彼女は高らかに笑っていた。笑いが落ち着いて彼女はまた口を開く。僕はずっと夕陽を眺めていた。

 「私、あの時の答えを聞かなきゃいけないの」

 「マルかバツか、だよね」

 「そうよ」

 答えは用意しておくべきだった。この物語の終わりがどうなるのか、やはり僕には何一つわからなかった。僕は二本目の煙草を取り出し、火をつけた。

 彼女は何も言わずに僕に横顔を見せたままだった。もしかしたら、彼女はずっと僕の答えを待っていたのかもしれない。僕は大きく吸い込んだ煙と同時に言葉を吐いた。

 「あの時はマルだったのかもしれない」

 彼女は、海に向かって手を伸ばしながら答えた。

 「だめよ、マルか、それじゃなきゃバツで答えなきゃ」

 「わからないよ」

 夕陽はもうほとんど見えなくなっていた。僕たちの後ろの街灯は、夜が明けるのを待つようにチカチカと音を立てている。

 「あなたがバツと言うまで、私はずっとここに居なきゃいけないの」

 僕が物語を終わらせようとしたのと同じように、彼女も物語に囚われていた。彼女は、僕の手をそっと握った。僕はいよいよ物語の幕が閉じるのを感じた。僕はようやく、口を開く。

 「バツ

 「マル」

 

(3850文字)