消え逝く道の標べに

コラムやSSを綴っているブログ。

「自己肯定感」というバケモノ②

 

手を伸ばしてみたが思っていたより短くて君には届かなかった。どうも、くららです。

 

先日、こんな記事を書きました。

 

kurara121.hatenablog.com

 

今回のコラムもその続きというわけなんですが、今回は、「自己肯定」に関する面白い話しをしたいと思います。

 

A.カミュの著作に『シーシュポスの神話』というものがあります。その表題の「シーシュポスの神話」は、こうした「自己肯定」を問うものであります(そもそもカミュは、自己肯定とは言わないものの、フランス語でウイとノン、すなわち、「諾(ウイ)と否(ノン)」について考察をしていることでも知られています)。

 

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シーシュポス - Wikipedia

 

「シーシュポスと岩」の欄を参照すればわかるが、カミュはその書き出しを次のようにしている。

 

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことだった。

 

永久にころがり続ける岩を、山の頂目指して、運んでいかなければならない。シーシュポスは決して盲目ではない。意識的に、岩をころがし続ける。カミュは、その様を、「不条理の英雄」だと言う。不条理の中に立たされたシーシュポスは、カミュにとっては、屈強の、情熱の、憎悪の、英雄なのである。

 

そして、ここにニーチェ的な精神が内包されている。

 

「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これはまさに畏敬すべき言葉だ。この言葉は、人間の残酷で有限な宇宙に響きわたる。すべては汲み尽くされていない、かつても汲み尽くされたことがないということを、この言葉は教える。・・・この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。

 

シーシュポスの沈黙は、神々を超えてしまったのだ。彼は、神々が課した重荷を超えてしまった。彼は己の宿命を越え出て、「すべてよし」と判断する。

 

不条理な人間は「よろしい」と言う、かれの努力はもはや終わることがないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない、少なくとも、そう言う宿命はたった一つしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑するべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。

 

ここでカミュは、シーシュポスが与えられた宿命を不条理な人間の手へと還元することで、人間と神の関係をひっくり返している。

 

「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ」。

 

自分自身の手によって、運命の舵を握ること。それが不条理の中にあるとしても、「すべてよし」と判断する意識的な反抗と熱情。*1

 

この様は、ほとんど完全な自己肯定だと言えるのではないか。

 

自分の境遇、不条理、世界、価値、その全てを「すべてよし」と言う。

もちろん、僕たちはここまで自己肯定することはできないだろう。しかし、カミュがそう見たように、シーシュポスは不条理の偉大な英雄であり、ニーチェもまた、「すべてよし」を地で求め続けた偉大な英雄の一人だと、僕は思っている。少なくとも、そうした人間が存在していたということが、とても素晴らしいことのように思えてならない。

 

 

・・・続く。

 

(1490文字)

 

*1:僕はここにさらに、シーシュポスにおける「世界との絆」を、「慰め」の一部分として解釈している。若い娘の手が、シーシュポスの唯一で絶対的な慰めだったのではないか、と考えている。