消え逝く道の標べに

コラムやSSを綴っているブログ。

〔SS〕『清算』

 

『清算』

 

 真っ黒のスーツ姿。部屋の酸素は、その黒さによって吸収されていた。空気は冷たく、そして張り詰めていた。唾を飲みこむのも困難に思えるほど、一瞬の気の緩みも許されなかった。生きている人間たちが一人の死人を前にして、それぞれの思いの丈を何処かにぶつけようとしていた。部屋の中心に不自然に配置された、存在を強調する棺桶を紛らわすように、周囲は色とりどりの綺麗な花々で彩られている。それは絶対的な沈黙に対する、唯一の抵抗のように見えた。

 ポップな音楽にはあまりに似つかないすすり泣く声と、数秒ごとに刻まれる黒の足音が耳を擘く。その音のどちらも、言語を失った悲痛な叫びだった。高級な木材で作られたであろうオーディオが、柔らかなドラムとギターの音を響かせている。わずかに歌詞が聴き取れる。元気だとか精一杯だとかいう歌われていることから、きっと応援ソングなのだろう。一体、誰を応援しているのだろう。コーラスに合わせて、黒たちのすすり泣く声がわずかに大きくなっていた。

 僕は、あと二〇歩くらい近づけば、棺桶の中で覚めない夢に身体を委ねている彼女が待っていることを知っていた。僕は、彼女の生気を失った青い肌と、事故で失った半身が死化粧でも隠しきれないほど崩れているのだろうと想像していた。

 目の前の黒が、また一歩進んだ。足を進めるたびに、足は重くなり、現実を拒んでいるように感じた。いつもにまして、脳みそがやけに冴えている。意識の奥底で、自分自身を客観的に見ていた。黒の何人かは、棺桶の前で崩れ落ちていた。黒の数は一〇〇くらいだろうか、限られた時間で、彼女との会話を終えなければならなかった。しかし僕は、彼女との会話で用意するべきだった言葉を何も考えていなかった。数十分が経ったが、細かな穴の開いた木からはポップな音楽が鳴らされている。サビの部分でわずかに音量の上がるギター音が煩かった。

 先に彼女との会話を済ませた黒は、堰を切ったように涙を流し続け、肩を寄せ、抱き合っていた。参列していた黒の中には、同窓の不良の姿もあった。彼らの中で泣いているものはいなかったが、別れを悲しんでいるようには見えた。彼女とは、同窓ということ以外に縁はなかったはずだ。だから彼らがどんな思いでここに来たのか、僕にはわからない。彼らも同じように黒であった。とにかく、黒たちを僕は横目で眺めていた。大多数の黒たちが涙で顔を濡らして抱き合うその姿は、この行事の中でもっともな行動のように見えた。

 あっという間に、僕と彼女との距離はあと数歩だった。存在を強調した棺桶は、遠目から見れば真っ黒であったが、近付いてよく見ると、深く焦げた茶色をしていた。目の前の黒が、彼女の顔に触れる。涙が、棺桶の中に落ちていった。

 僕は、彼女の顔を見たくなかった。僕は今、自分が一生涯忘れられない光景を見るとだろうということを恐れた。しかし、足を動かさなければならなかった。そうすることが宿命であるかのように、行動しなければならなかった。僕が恐る恐る足を進めると、一番前の座椅子に腰をかけハンカチを顔に当てた黒たちの視線を感じた。

 その中には、いまだ幼さの残る男の子がいた。少年が、彼女の家族だということはすぐに理解できるものだった。少年は、空間を歪ませていた。生に溢れている存在が、生と死の不釣り合いを具現化していた。溢れるばかりの生と、対峙する死。そういえば彼女は以前、弟がいると言っていた。

 少しずつ、彼女の顔が、見える。僕は、ピクリとも目を離さず、彼女を捉えようとしている。意志はそれを拒んでいるが、それでもなお目を離さずに、見ている。向日葵の花が、彼女の周りに添えられていた。眩しい黄色が彼女を優しく取り囲んでいる。

 半歩ずつ進む。わずかに動悸がして、視界がスローモーションで流れる。これが彼女だ。生気のない青白い肌は今にも壊れそうだった。ピンク色とオレンジ色で混じったチークが、それを隠すように塗られている。目は、力いっぱいに閉ざされている。顔の半分は、わずかに歪んでいた。僕はその歪みに違和感を覚えたが、それは不快ではなかった。僕は、彼女が黙りこくっていることに不快感を抱いた。それは、ドロドロと全身に張り付き、憎悪に変わった。明晰な脳みそを余所に、心臓が悲鳴をあげていた。そいつが僕を支配したおかげで、はじめの違和感は瞬く間にかき消された。

  

 事故のとき、彼女は自転車に乗っていた。詳しいことはわからない。どちらかが信号を無視して、彼女は大型トラックに轢かれてしまった。彼女は即死だった。その日、彼女は東京湾へ向かっていたらしい。排気ガスで包まれた産業道路を、ずっとまっすぐに進んでいくと、彼女のお気に入りの場所に着く。僕は一度も行ったことがないけど、彼女はその景色をとても気に入っていた。

 彼女が死んだという連絡を受けたとき、僕はいつものように電車に乗り、高校に向かっていた。記憶が正しければ、それは寒い日だった。電車の窓が、曇っていた。普段連絡の来ない友人から、メールが届いた。僕はそれを開く。

 −−◯◯って覚えてるか?

 その内容が何を指すのか、すぐに理解できた。悪い予感ほど、よく当たるものだ。電車の揺れなのか、僕自身の揺れなのかはわからなかったが、突然、自分の足元が途方もなく頼りなく感じた。僕は足に力を入れ、倒れないよう踏ん張っていた。

 −−何かあったの?

 おそらく、こんな感じの返信をしたはずだ。震える手と携帯電話を隠すようにポケットにしまいこんで、僕は下を向いて、答え合わせが訪れるまでの時間に耐えていた。快速の電車は、なかなか止まらなかった。

 七時三十分。携帯電話のバイブレーションを感じ、心臓がかすかに音を鳴らした。その内容がどんなものかは分かっていた。悪い予感ほど、よく当たる。僕は息を整えて、メールを開いた。悪い予感は完全に的中していた。すぐに悪寒と嘔き気が身体を貫いた。それは次第に、圧倒的な重力を伴って、僕を世界の底まで沈めた。

 死んだ、死んだのか。死が突然やってくるということは誰でも知っている。死は、あまりにもさっぱりと、均衡を破り、不自然に割り込んできた。七時三十五分。たまたま居合わせた同じ車両の人間たちを見回した。僕と同じように電車に揺られ、それぞれの目的地に向かっている。せわしなく生きている人間たちの傍らで、彼女は知らぬ間にその生涯を閉じてしまった。どこかにあるはずだと思っていた存在は、一瞬で泡となって消えた。日常の揺らぎの中で、彼女は消散してしまった。彼女が死んだ昨日、僕は何をしていたのだろう。僕は、思い出せない。そのとき、涙は自然と流れて落ちた。それは頬をつたい、顎の先に溜まって落ちた。僕は渦の中から、それを眺めていた。悪寒は消えたが、嘔き気と重力が残っていた。目の前の世界は歪んでいた。

  

 キイキイと、ブランコが音を立てていた。静まり返った夜の公園に、男女が三人で話す声が響いていた。記憶の底に埋まっていた記憶が、皮肉にも彼女の喪失によって蘇った。僕は、何度も、何度も、その記憶を反芻する。

 「もう少し大人になったら、四人でシェアハウスとかしたいね」

 小学校の同窓だった。少しだけ大人になって再会した僕らが、叶いもしそうにない数年後について話していた。高校生になって、ときどき四人で集まって遊んでいた。少年二人と少女二人。幼馴染が当たり前に再会するように、僕たちもそうした。

 「じゃあ、料理は誰が担当する?」

その日は、少年が一人いなかった。しかし僕たちは、四人の生活を夢想していた。僕は、誰の料理が一番美味しいのかと考えたが、とにかく男が料理担当なのは気が引けた。記憶の中の彼女は、よく喋っている。「そもそも」と付け足して、

 「△△は、男あそびで帰りが遅くなるかもね」

と言って、もう一人の少女を茶化した。

 「そんなこと言ったら、山田だって女あそびで遅くなるでしょ!絶対」

茶化された△△はムッとした表情をして、自信満々で、矛先を僕にうつした。

 「あはは、確かに」

 と、僕は大笑いしながら答えた。

 「・・・大学生になったりして、こんなことができたらいいね」

彼女の発言に、僕と△△はしきりに頷いた。夜の公園は、キイキイという音で包まれていた。

 

 だから、それは同級生の早すぎる集合だった。僕は、ポップな音楽が鳴り止まない部屋を背にし、歩き出した。外に出ると、先に用を済ませた黒が邂逅していた。

 数年ぶりに見かけた密集した黒に紛れて、△△が黒の一人と話していた。彼女に近づく。「大丈夫?」と声をかけると、涙で顔を崩している彼女は横に立っている僕に気づいた。ほんのかるく、触れられるようにして抱きしめられた。きつく結ばれた黒色のネクタイが、△△の涙を吸収した。しばらくそうしていると、彼女がそっと離れた。

 「そっちも大丈夫?」

 しかし僕がすぐに「大丈夫だよ」と答える前に、彼女は離れていった。他の黒に呼ばれて、彼女はそそくさと足早にかけて行った。△△の後ろ姿は、死んだ彼女との別れを背負っている。△△は、彼女自身の道へと戻っていったように見えた。僕は、それが少しだけ寂しかった。

 僕は、すぐに帰ることができなかった。帰ってしまえば、彼女が永遠に消えてしまうように思えた。それでも、どうすることもできなくて帰路についた。僕は、彼女の生身を収納した不気味なほど角張った建物を離れていくほかなかった。すすり泣く声と黒との邂逅をあとにして、彼女のことを想った。僕はただ、ぬめっとした夜をただ受け入れた。

 その日、夢を見た。彼女との最後の瞬間がもう一度流れだした。僕は彼女の顔に触れることができずに、その場を去った。棺桶の中で沈黙を纏った彼女を眺め、袖から手を出すことができなかった。僕は、自分を失うことを恐れていたのかもしれない。呆然と、死化粧で顔を固めた彼女の冷気だけを目で感じていた。数秒だけその時間に耐え、固まった両足に力を入れて、最後の時間を後にした。僕は、彼女の死を、呆気なく失われた存在を、自然に従って悲しむことができなかった。

 

 それとも、僕は彼女との別れを悔やむべきだったのだろうか。あるいは、いや、僕は彼女の沈黙を悔やんでいたし、それを与えた世界を恨んでいたはずだった。のうのうと生きている人間の姿を見ると、僕は、どうして死の運命に立たされたのがこいつではないのかと怒りの矛先を無造作に向けていた。神は、彼女のことを笑っているのだろうか。もしくは、この全ての物語を見渡して、ほくそ笑んでいるのだろうか。一体どうして、誰かが死ぬという運命を、認められることができるのだろうか。しかし、僕の憎悪は正しいものではなかった。彼女のために何もしなかったのだから。僕は、憎悪を賭金にして、救済を求めていただけだ。僕自身のために彼女を利用していただけだったことに気づき、決して許されるべきでないことを了解した。どろどろと溶けた意識の中で、永久に許されることのない罪の概念が、ただ横たわっている。

 僕は彼女との間につくりだしてしまった悲劇をそろそろ清算しようと考えている。明日、彼女のお気に入りの場所へ行く予定だ。そこには、きっと、彼女が何度も見渡した、美しい海が待っている。

 

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