小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

『五分前』

 

『五分前』

 

    「世界五分前仮説って知ってる?」
    ユリカがそう聞いてくる。放課後、私たちは教室の片隅で不毛な議論をするのが日課だった。
    「知ってるよ。あの、世界が五分前にできたかもしれないってやつ」
    「そう。カオリは信じる?」
    ユリカが食いついてくる。彼女は思考実験の類いが大好きなのだ。私は彼女の趣向に飽き飽きしていたが、彼女への好奇心から話しに付き合う。ユリカは、他の子と違って少し《変わっている》。
    「信じないよ。だって」
    私がそう言いかけたところで、ユリカが遮る。彼女はだいぶ興奮気味で、若干瞳孔が開いている。彼女はいつもと同じく、議論の前提を整理するだろう。ほら、今にも。
    「わたしね、昨日お風呂に入っていたの。そうしたら、気づいたときにはベッドに居たのよ」
    「そうなんだ」
    私は適当に相づちを打つ。片手でペンを器用に回しながら。
    「わたしは、その途切れた時間に世界が新しく生まれ変わったんだって思うの」
    ユリカの顔をじっと見る。とんでも理論だ。世界は彼女中心に回っているのだろうか。彼女は少し間をあけて、話しを続けた。
    「神さまじゃないの。わたしがその瞬間、世界を作ったのよ。新しい世界を始めたの。意味わかる?」
    ユリカの額には、今にも破裂しそうな血管が浮かんでいた。それはパンパンに膨らんで、醜かった。きっと、それは触ったらブヨブヨしているだろう。彼女の興奮は、暗がりの教室で異様な響きを立てている。やっと私の番がくる。
    「ユリカが世界を作ったとして、一体それを誰が、いつ、どのように証明できるの?」
私は、はっとした。この議論は循環してしまう。しまった、と思った。以前、この手の循環論に巻き込まれて、三十分近く話し込む羽目になったのだ。カオリはすぐに「いや、」と付け加えた。
    「いや、それなら私の存在もユリカが作ったということ?」
    ユリカの返事は早かった。
    「ううん、カオリは関係ないわ。わたしの世界だもの」
    私は動揺して、ペンを机の下へ落としてしまった。ユリカの答えは想定外だった。まさか、ユリカが独我論者だったとは。こうなったら、もはや、どこから否定すればいいのかわからない。
    「たしかに、世界が五分前に創られたということも否定はできないし、ユリカが世界を創ったということも否定はできないかもしれない」

私がそう言うと、ユリカは少し表情を緩ませた。
    「よかった、信じてくれたのね。カオリに話してよかったわ。そのとき、わたしは《新しい存在》になったの。その話しも、聞いてくれる?」
    根負けするしかなかった。私はこの手口を知っていた。街中でアンケートと偽って「サインだけでいいから」と言って、そのあとに「募金活動をしている」と言うと、募金率が上がるというアレだ。つまり、うまいこと誘導されてしまった。
    「いいよ」
    しぶしぶと、しかし悟られないよう私はそう言った。
    「昨日学校が終わって、一人でゲームセンターに行ったの。息抜きに」
    ユリカは話しを続けた。
    「わたし、先生と《関係を持ってる》って話し、したよね。ちょっと前に喧嘩しちゃったの。彼、《そういうこと》する時、少し変わった趣味があってね・・・まぁ、それはいいんだけど。そうしたら昨日、先生がわたしの後ろをついてきてたみたいで・・・UFOキャッチャーの中にいる汚れたぬいぐるみを見ていたら、突然、腕を掴まれたの」
    なんだか話しの雲行きが怪しくなっていた。確かに、先生と関係を持っていたのは前に聞いたけど、別にユリカは真面目すぎるわけじゃないし、そのうち《火遊び》にも飽きるだろうとは思ってたんだけど。
    「それで、どうしたの」
    私は、ユリカの話しに聞き入った。心配している調子で聞いたフリをしたけど、それはたんなる好奇心からだった。
    「わたし、すごいびっくりしちゃって。鬼みたいな形相で腕を握られて、耳元で『お前、他にも男いるんだろ』って言ってきた。
    「でもね、先生の勘違いなの。わたし、そもそも誰のことも好きじゃないし。先生と《そういうこと》をしてたのは、彼の破滅願望が、わたしの《汚れ》を気にさせなくする、心地いいものだったってだけ。
    でね、『お前の家に行きたい』って。腕に先生の爪が食いこんで痛かったわ・・・今日は父が居るからだめって、言ったんだけど」
    私は、まさかユリカがそんなことに巻き込まれているなんて全く思っていなかったから、少し驚いた。彼女は、大抵話しの途中で《そういうこと》について話してくれる。私の好奇心がそれに反応するのだ。だから、私はそれを抑えられなかった。いつの間にか、ユリカは私の落としたペンを拾って、見つめていた。
    「先生があまりにもしつこいから、もう、ちょうどいいやって思ったの。あのね、わたし、父に虐待されてるの。《そういうこと》はないけどね。毎日、吐くまで蹴られていた」
    ユリカは、いつからか体育の授業に参加していなかった。全身の痣が、見えてしまうから。しかし、無数の痛々しく腫れた脚は、スカートでは隠せない。だから、みんななんとなく察していたけど、誰もなにも言わなかった。もちろん私も。ユリカは続けた。
    「わたしは、変わりたかった。だから、好きでもない先生と《そういうこと》をしてみたり、ピアスを開けてみたり、髪を染めてみたりした。でも、何も変わらなかった。むしろ、悪化していったの。痣は次々に増えていった。すべて、何ひとつうまくいかなかったわ。
    だから、ちょうどよかったの。わたしは、最後の選択を用意していたから。それで変われなかったら、わたしは《おかしい》。だって、人は変われるって言うじゃない?」
    唾を飲み込む音が、日が差さなくなった教室に響いたような気がした。ユリカの瞳孔はどんどん開いていっている。日は完全に傾いてしまっていた。教室の半分が、暗闇に包み込まれている。カーテンだけが、微かに揺れていた。
    「最後の選択って、なに?」
    沈黙を破り、私が口を開いたときには、ユリカの半身は暗闇に溶け込んでいた。
    「最後の選択は二つあった。ひとつは、わたしが消えてしまうこと。これは思うより難しかった。何度もしようとしたけど・・・二つめは、今、から話す」
    ユリカが静かに、淡々と話しを続ける。
    「わたしは、先生をリビングまで連れていった。父も先生もとっても驚いた顔をしていたわ。だって、先生は《そういうこと》をしようと思ってついて来たし、父も、日課があったからね。わたしは、こっそり果物包丁を握った」
    まともに息ができない。これがユリカの《創作》だと解釈しようとしても、暗闇に溶けた彼女が、心の奥へと直接侵食してきているようだった。心臓を掴まれているような苦しさ。だから私は、彼女に、この話しの結末に、惹き付けられる。

    「あとは簡単だった。わたしは、間髪入れずに先生を後ろから何回か刺してみた。何の抵抗もなかった。変な感触だったわ、思ったより嫌ではなかったけど。刺しては抜いて・・・ドプドプと血が溢れていた。開封したばかりのペットボトルを急に傾けたみたいに。先生は振り返らずに、父と見つあっていた。傷口を抑えられないから手の行き場がなさそうだった。すこしして倒れたあと、なんだか寂しそうにわたしを見ていたわ。
    父は、何が起こったのか分からなかったみたい。先生に隠れて私が見えなかったから、いきなり先生が吐血するんだもの。その血が父の顔にかかってるのに、まったく動かなかった。
    わたしは躊躇せず、倒れた先生を跨いで父に近づいていったわ。赤く染まった包丁を握って。私は生まれ変わっている最中だったんだと思う。あとは《ソレ》を消滅させるだけだった。父はだんだん顔を引き攣らせていったわ。わたしが一歩足を進めるたびに、現実を受け入れていく子供みたいに、顔つきが変わっていった。
    もうそのとき、わたしゲラゲラ笑っちゃった。父はソファに腰を浅く掛けたまま、覆いかぶさるように振りかざす手を止めもせず、包丁を顔面から受け入れたわ。
    《ソレ》は、先生の背中より硬かった。それでもわたしの体重が乗ってたから。すっごく簡単に刺さっていった」
    ユリカはもうどこに居るのか、私には分からなかった。教室のなかで、声だけが反響していた。私は、好奇心と恐怖で、頭が重かった。
    「で、最初の話しに戻るね。わたしは、《ソレ》で汚れちゃったから、お風呂に入ったの。わたしは、無心で身体を洗ってた。顔にも、首にも胸にも、血が飛び散っていたわ。何度も何度も、肌が痛くなるまで擦った。汚い茶色い血がついたシャツも、リビングの《ソレ》も、どうでもよくなるくらい。ひたすらわたしは身体を擦ったの。
    とても長い時間、わたしは身体を擦っていたわ。蹴られた痛みよりも、《そういうこと》を初めてしたときの痛みよりも、今も全身が痺れるように、ビリビリして痛いわ。それで、お風呂を出て、リビングの《ソレ》には目もやらないで、部屋に戻って、ベッドに飛び込んだ。力のいる作業をしたから・・・それで時計を見たら、お風呂に入る前には六時二十三分だったのが、六時二十八分だった。

    わずか五分のことだった。世界が、五分で変わった。わたしは、五分で世界を創造した。だって、五分前のわたしと何もかもが全て違っていたわ。わたしは、生まれ変わったの。新しい存在に」

 

    遠くでサイレンの音がする。それは、だんだん近くなってきているように感じる。ユリカは闇に溶けてしまっていて、姿は見えない。もう、声も聞こえなくなってしまった。

    私はふと時計を確認すると、ユリカと話してからたった五分しか経っていなかったことに気づいた。六時二十八分だ。世界は、深い闇に包まれていった。

 

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