小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

『泡のような人生に』


『泡のような人生に』

 

    キッチンで食器を洗う音がする。男には付き合って二年目の彼女がいて、二ヶ月前に同棲を始めた。親切心からなのか分からないが、彼女はすすんで家事をする。男が仕事で疲れていることを理解しているようだった。
    男の疲労はすでに限界に達していた。仕事では、朝から晩まで酷使され続けた。彼女と出会った大学を卒業し、しかし就職先を間違ってしまったことを、何度後悔したことだろうか。肉体も精神ももはや正常には働いていない。自分の意識を越えたところで、何かが自身を操っているように感じていた。
    彼女は、つねに男に優しく接している。口を開くことは少ない。さらに何ヶ月も経つ頃には、男の頬は痩け、目の下には隈ができ、その姿形からは、《欲求》というものを感じることができなくなるまでにやつれていた。

    ーーもう寝るよ。
    男は彼女にそう告げ、布団に入った。返事はない。彼女の食器を洗う音が、扉を越えて脳内に響く。洗剤の泡がひとつひとつ音を立てて破裂していくのが、はっきり脳内で響いていた。男は耳から入ってくる音を遮断するように、毛布を頭まで被せる。
    男は、彼女から別れを告げられたいと思っていた。毎晩仕事でくたくたになった身体で玄関をくぐると、彼女は黙って夕飯を作っていた。食事中、彼女は何も話さなくなった。気を遣ってくれているのだろう。男は、疑問に感じていた。何ひとつ希望を感じることもなくなった自分と、どうして一緒に暮らしているのだろうか。
    彼女の幸せを願って決別を想う一方で、男は、生きていくために必要な言葉を、体温を、彼女の存在を求めていた。だから、男は別れを告げることができなかった。
    食器のぶつかる音が止まない。男は、薄い扉を一枚挟んだ向こうで、彼女が今どんな顔をしているのかとふと考えた。すると、男はここ数ヶ月もの間、彼女の顔をまともに見てなかったことに気づいた。今その顔は、笑っているだろうか。彼女は一日のうち、何回笑っているのだろうか。
    彼女の鼻唄が聴こえてきた。彼女は、男との人生の何を希望にしているのだろう。男は彼女の人生を想い、布団の中で一人、懺悔していた。
    ーー明日も、はやいのかな。
    気づくと、彼女は布団のなかに入っていた。男は背を向けたまま、彼女の問いに答える。
    ーーごめん。
    しばらくして、やっと出た言葉だった。布団は男の体温と同じ温度を保っていた。またしばらく経ってから、彼女の啜り泣く音が聴こえてきた。

    大量の泡の弾ける音がした。凝縮した小さなそれの中には、彼女と出会った月日がまるまる詰まっていた。男はただ、背中に彼女の体温を感じていた。明日も早い。しかし男にはもう関係がないことのように思えた。男は、啜り泣く音に向かって、言葉を投げかける。
    ーーばからしくなるよな。自分の人生になんの価値もないように感じただろう。ごめんな。たぶん君は・・・考えたはずだ。パートに行っては小銭を稼いで、月に僅かな貯金をして、俺の帰りをただ待つ生活だ。そこに、希望はない。そんな生活のどこに幸福が見いだせるんだ。君は何ひとつ悪くない。俺のせいだ。君は・・・君はいつでも優しかった。もう我慢しないでいい。俺は、もう君を止めない。君も・・・たぶん俺を止めないだろう。だが本当は・・・君は引き止めてほしいのかもしれないし、この無様な生活から身を引く手伝いをしてほしいかもしれない。どっちつかずの思いだって。
    彼女は男が語りだすのを、ただ涙を流しながら、聞いていた。
    ーー俺は気づくのが遅かった。幸福とか安定とか・・・そうした郷愁を抑えることで、なんとか生きながらえることを選んだ。身勝手に・・・・・・遅かった。全てが遅かったんだ。
    男は、気づけば嗚咽混じりの声になっていた。その声には、世界への憎しみと、たった一人の女性への懺悔が含まれていた。彼女は、口を開かない。
    ーー自由のない世界は苦しい。この社会は縦からも横からも、俺を押しつぶそうとしていた。乗り越えられると思っていた。本当は、最初からとっくに潰れていたのかもしれない。いっそ・・・。

    彼女の啜り泣く声はいつの間にか止んでいた。布団は、男の嗚咽を吸収する。

    気づいたら、男は眠っていた。その眠りは、今まで感じたこともないような快楽だった。朝目が覚めると、彼女が荷物をまとめている。彼女は、赤くなった目を優しく男に向け、口を開いた。
    ーー今日は・・・何もないんでしょう。私も、今朝パート辞めちゃった。・・・あと今日はあなたの誕生日だわ。気づいてなかったでしょう?おめでとう。
    彼女は、ふふっと笑っていた。テーブルの上には、『沖縄特集』と書かれた旅行情報誌が置かれていた。
    ーー「いつか行こう」って言ってたじゃない。それを今日にするのはどう?たぶん、これまでにないくらい・・・素敵だと思うわ。
    男は目を丸めたまま、彼女の言葉を飲み込む。世界が開かれていくのを、感じた。男は『沖縄特集』を手にとって眺め、そして「あぁ、最高だ」とだけ言って、荷造りをはじめる。それは、新しい朝だった。男は太陽が祝福してくれているように感じた。今まで体験したことのない心地のよさが、男の身を包んでいる。男の涙は床に落ち、太陽の光に輝いたまま、音を立てずに弾けていった。男は求人情報誌に被った埃を払い、鞄に無造作に放り込む。どうせ一度弾けた人生だ、どうにでもしてやる。男と女は、少しの希望を胸に抱えて歩きだす。新しい生活が始まる。

 

(2350文字)