小説家になりたいくらら

コラムやSS、短編を綴っているブログ。大学院生であり就活生。生きていくことに必死です。

「希望」を語ることは、そんな滑稽なことだろうか?

 

新しい環境の中で、新しい目標ができて、新しい生き方をしようと考え始めました。どうも、くららです。

 

最近は更新が滞っておりますが、就職活動を頑張っております。うまくいくかはわからないけども、やれるだけやってみたいという気持ちがあるだけ、まだまだ平気なように思います。

 

ちなみに執筆活動の方も、新しい目標が決まりました。今後、機会があればお話しできたらと思っております。

 

「希望」を語ることは、そんな滑稽なことだろうか?

 

この混乱した現代に、「希望」という言葉が果たしてふさわしいものなのだろうか、と誰かが言いたげな顔をしている。

 

「希望」を語るには、「あまりにも時代が錯乱している」と彼らは言う。

 

そんなこと知ったこっちゃない、と僕は思う。

 

希望を抱けない人間が増えた、と僕は思っていた。しかし、これは間違いだった。人間は、もともと希望なんて抱いていなかった。

 

この時代に特有だと言われる「混乱や錯乱」は、ずっと前から起こっていたのだ。

 

たしかに、絶望の淵に立っている人に、「希望を持て」なんて誰も言えない。苦渋の渦中に佇んでいる人に、「希望を持て」なんて誰も言えない。

 

だから一体、どうしたと言うのだろう。

 

僕たちには、「希望」が必要だ。

 

それはどんなものだって構わない。「お金持ちになる」ということだって立派な希望だ。私的な希望を抱くことは、十分すぎるほどの生きる理由になる。

 

希望を抱かずして、何を抱くのだろうか。

 

残酷さに打ち拉がれている人たちが社会的に恵まれるようになること、あるいは、社会が平等になるだとか、そんな大雑把な希望だって構わない。

 

別に僕は、「新しい指針が必要だ」とは言っていない。指針なんて必要ない。政治は、実際的な効力を持ちうる議論をしてくれればいいし、今では世界平和なんてものは程遠いけども、いつしか技術的な革新が起こって、再分配までの道のりが徐々に回復されるように願うばかりだ。どこか全く想像にも及ばない世界に生きる人たちが、少しでも幸福でありますようにと願うばかりだ。

 

しかし、どこかの誰かが提示する指針は必要がない。願うことが大事なのだ。願いは、希望であり、いつしか約束となるかもしれない。

 

たしかに、僕は綺麗事を言っている。実際、人間は今まで、僕たちのみながみな手を組んで、笑いあえるような世界ではなかった。それでも、世界は少しずつ修正され、良くなってきている。歴史をこのように解釈するのは間違っているだろうか。しかし、「残酷さ」の過剰防衛が跋扈さえすれど、それは、「誰かを守りたい、守るべきだ」という気持ちが増幅したいという気持ちでもあるはずだ。苦しみを繰り返さないように、人は前進していっているではないか。それは、違うのだろうか。

 

僕にとっての希望の一つは、

遠い未来に、かぎりなく遠い未来に、今よりも良い世界が存在しているだろう

ということだ。

 

これは上に書いた理由から論理的に導き出した推論でも、「歴史を研究してきたから言えるのだ」ということでも、「技術の革新が確実に起こる」ということでもない。完全に、たんなる直感でしかない。いや、先に述べたように、「そうであってほしい」という願いなのかもしれない。

 

だが、それがどうしたというのだろう。

 

僕が人生で掴みとった「慰め」は、あまりにも大きいのかもしれない。途方もなく、達成される見込みのないところまで想像して、さらにその先を見渡している。

 

「希望」を語ることは、そんな滑稽なことだろうか?

「希望」を語ることは、そんなバカバカしいことだろうか?

「希望」を語ることは、そんな役に立たないことだろうか?

 

希望の形は、なんでもいい。そこには論理も、指針も必要とされない。必要なのは、想像力だ。

 

おそらく昔の人々が想像力を駆使して神を生み出したことには、やはり理由があった。

 

宗教の希望は、天国への道が開かれることだった。

 

宗教が希望の役目を果たせなくなるにつれ、人間は希望それ自体を抱かなくなった。

 

僕たちが捉えるべきは、天国ではない。僕たちを越えて遥か先へと続いていく人間だ。

 

人間の希望は、人間への道が開かれることだ。

 

(1700文字)